心理学概論

心理学に興味を持ってもらう為に、自身の考察も含め、できるだけ分かりやすくまとめていくつもりです。

心理学的意味論

一般的に我々は、言葉の意味と事物を同一視したり、ことばの理解をすれば、その表す事物まで理解したような錯覚を起こしがちである。

 

 

青という言葉がある。≪アオ≫というシンボル(名称)と相互喚起の関係にある「意味」は、紫でもなく、緑でもなく、赤でもない。それは、他の色と対立して、それ自身をはっきりと引き立てている点で、純一性を保っている。

しかし、このシンボル(名称)によって捉えられる現実の青には、さまざまな色合い、濃淡、混色などがあって、純一の青などどこにもない。つまり、言葉の意味は純一であるのに対して、事物の世界は混質的であり、差異的である。

 

したがって、我々は言葉によって、混質・差異の世界を結晶化し、純一化すると言ってよいのだろう。この結晶化がない限り、事物の世界は、人間にとって永久に混質と差異の世界なのである。

この結晶化された世界、それが意味の世界である。シンボルが直接結びついてないというのは、この事を言う。シンボルは、この結晶化されたイメージと関係するのであって、事物とはこのイメージを介して保たれているにすぎないのである。

 

スキーマ

 

具体的な言語活動を成り立たせている要因は、話し手、聞き手、ことば、事物であり、されにこれらを包括されるものとして場面がある。

言語活動は、この四つの要因が、具体的な場面場面において働きを出すところに成立する。話し手は、ある事物を聞き手に示そうとして、ことばを用いる。しかし、言葉の意味を理解しただけでは話し相手の真意を理解した事にはならないであろう。

なぜなら、事物そのものをつかまえなくては、真の理解に達したとはいえないからである。

 

とは言え、上掲で述べたように、事物とは混質と差異の世界なのである上に、事物の多くの属性を持った複合体であり、話し手がことばによって捉えうるのは、その一面に過ぎない。とするならば、話し手がことばによって事物のどの面を光に当てようとしているのか、その意図を探らなくては、事物の真相に迫り得ないだろう

 

 

しかし、我々は記号の背後に無数に事実が隠されている事をわすれて、簡単にことばによって決めつけたり、その決めつけに跨る場面をよく散見される。

誇大宣伝、流言、常套句など。事実によらないで、記号のみによって判断するのは危惧すべきなのである。

思わず記号だけに頼って、その背後にある事実を忘れがちになる。このようにして、ある知識体系あるいは既存知識(スキーマ)から発動されてしまう偏りの事をステレオタイプ(偏見)という。

 

本来、コミニュケーションとは場面ごとによって、どのような事実が言及されているのか、話し手の意図は何かを見定めなければならない。

 

 

 

 

 

 

Psychology

「心理学(Psychology)」という言葉を聞いてみなさん何をイメージされるでしょうか。心理学という学問に対して各人思い入れはあると思います。

 

蓋し、学問としての心理学と一般のイメージとは少し相異なるものと思われる。本項ではあらかじめそのような心理学に対する一般的なイメージを打開する必要があるでしょう。 

 

まず、一つ断っておきたいのが「心理学は読心術ではない」という点である。本屋や図書館の心理コーナーに行けば、たくさんの「○○心理学」といった書物を散見されるかと思われますが、中には、エビデンスのない独善的に書かれたものも多く存在しています。(ここでいうエビデンスの意味合いは根拠・証拠といった理解で問題ないです)

人は、心理学的興味に対する単純な、もっともらしい答えを提供される事を求めたがります。また、そのような安易な答えにおびき寄せられてしまうのです。

運勢占い、霊媒、血液型占い、こういった心理テストもどきに安易にひっかかってしまうのは本来人間が相手や自分の性格を簡単にかつ早く知りたいという心理学的興味の現れなのだと思われる。

このようなものは、はっきり言って、その提唱者の主観的な経験に基づいた、一見根拠のありそうな、その実、科学的根拠のない、客観性、再現性のないものばかりです。

 

フロイト(Freud,S.)やユング(Jung,C,G.)の精神分析も同じく、その大部分の理論は実証されたものではないのです。もちろん、精神分析学が血液人間学と同じ類のエビデンスの無いものとは言いませんが、実験的な再現性、公共性のない、あるいは非常に低いという意味では、現代の心理学とは異質な存在です。ただ、心理学の発展に精神分析学は大きな貢献をしてきたことは否定できませんし、それを無視して講義する事も不可能です。

心理学と精神分析学が同じものであると思っている人もいますが、精神分析学は心理学ではなく、その一関連分野であると理解してもらえれば良いでしょう。

 

 

基本的に、心理学は根拠のない事は認められづらいです。そして、これは下方にて読み進めていけば分かってもらえると思います。

 

 

 

・心理学の特殊性

 

心理学が、他の学問と異なる、大きな点があります。それは、「人間は誰でも心理学者たり得る」という点です。

例えば、歴史学の先生に学問的知識および造詣に、将来はともかく始めたばかりの人が太刀打ちするのはとても不可能でしょう。(他の学問でも、大抵そうでしょう)

しかし、「心理学」という分野に於いては「人間は、みな人間」であり、心理学が人間そのものを研究対象としている以上、全員が心理学の実践家であるわけです。

 

とは言え、一般の人の心理観はその人の実践においては、多分適応していたのでしょうが、それをそのまま他人に適応した場合、うまくいくという保証がありません。つまり、再現性、一般性がないという点にあります。

このことは、先程述べた「心理学は根拠のない事は認められづらい」の根底にあるものです。

 

対して、学問としての心理学は、いろいろな実験の結果から得られた再現性のある、客観的データや調査資料、統計処理に基づいた、多くの人に共通した傾向を示したものなのです。

しかし、100%の信頼性を持つとは限りません。心理学の理論は、あくまで多くの例ではそうなるという確率(統計)の問題であって、一つ一つの事例についてすべて適応的であるわけではないのです。残念な事に例外がある事は認めざる得ないのです。

 

 

 

心理学の諸現象は、自然科学のように1+1が2になる世界ではありません。3になることも1になることも、0になることもあります。まずは、こういった理解を根底におき、Psychologyを見ていく事が大切でしょう。

序項 

もう学問から遠く離れてしまい、勉強なんてものにほとんど接する機会が無くなってしまった人の為に、つまり本書では、子供向けではなく大人向けにできるだけ分かりやすく心理学を伝えていきたいと思っています。

 

本書では、もちろん純粋に「心理学を好きになってもらいたい」と言った目的も持っているのだが、それだけではなく「勉強する面白さ」を少しでも実感して貰えれば私の目的は大方達成できたと言っても良いだろう。

すなわち、これから話していくだろう心理学の分野に限らず(もちろん心理学を好きになってもらえる事はとても嬉しい事なのですが)多くの物事に興味や学習意欲を持って貰いたいというのが真意であり、切実な願いです。

 

といっても(少々難しい話になってしまうのだが)、学習意欲という言葉は、日常用語としてよく用いられるが、心理学的に明確に定義された概念ではない。本書では、学習意欲を「種々の動機の中から学習への動機を選択して能動的活動を起こさせるもの」と定義する事にする。

さらに本項では、学習意欲、すなわち「自ら学ぶ意欲」については学習それ自体に関心があって取り組む内発的動機付けに加え、自己実現に向かおうとする外発的動機付けの2つに大別的に捉える事にする。

 

そして急によく分からない単語が出てきてしまったと思うので、補足を入れておきたいと思う。

 

・内発的動機付け

 

「何か得られるわけでもなく、誰かに褒められるわけでもないんだけど、絵を描くのが大好き!」

 

といった、何か目的の為にするのでなく、至純にその行為を楽しむ動機付け(motivation)の事を言います。

 

・外発的動機付け

 

「今度のテストで78点以上とれば、お母さんにジャイアンのおもちゃ買ってもらえるんだ!がんばるぞ!」

 

上掲のように、何かの為に動機付け(motivation)がされる事を外発的動機付けといいます。

 

 

 

様々な研究によれば、内発的動機づけによる活動は、外発的動機づけによる活動よりも、楽しく、質が高く、持続すると言われています。

 

例えば、試験を目的とし、勉強をしている時(外発的に動機付けられている時)は試験が終われば 、勉強をしなくなるでしょうし。試験が終われば、モジュールを使用しなくなるので、勉強した事も忘れられてしまうでしょう。

 

しかし、内発的動機付けの場合は何か外的な目的の為にするのでなく、内的な満足なためにするのです。

それは、

 

  • 有能感: その活動を通して有能感が味わえるのが楽しい。

 

  • 自己決定感: 自分自身で決定して動かしていることが楽しい。

 

  • 対人交流:たとえばテニスやサッカー、教室での学習における仲間との交流が楽しい )

 

などの3のつ要因が相互作用していると考えらています。

 

 

本書では、いかに心理学が役に立つのか(外発的)では無くて、いかにそのもの自体の(内発的)面白さを伝えれる事に渾身を込めていくつもりである。